外山陽子の幸せに至る紆余曲折の半生

外山陽子は、地方都市近郊の田園風景がなじむ鄙びた農村で産声をあげました。外山陽子の父親は都市にある商社へ勤める会社員でしたが、母親と母方の祖父母は家付きの畑で農作業に従事する兼業農家でした。兄が2人いたこともあって末娘の陽子には家の畑を継ぐ必要性は無く、比較的自由な気風のもとで育てられたことで若い女性には特有の都会志向に目覚めていきます。地元の中学校を卒業して以後は、片道1時間かかる都市部の女子高へ通学するようになりました。そんな外山陽子の半生における最初の関門は、大学受験でした。第一志望は関東近郊の大学でしたが、成績的に国公立大学に合格することは難しく、私立大学は金銭的な問題から断念せざるを得ませんでした。仕方なく第二志望の隣県の大都市にある国公立大学を受験するようにしたのですが、それでも偏差値は60を超えてくるような学部ばかりで、陽子が模試などで合格ラインとされるレベルに達したのはまさに受験の直前でした。持ち前の気概で何とか大学合格を勝ち取った陽子は、大学周辺のアパートで念願の一人暮らしを開始します。元来自宅でも家事の手伝いをしていたため、あまり苦になるようなことはありませんでしたが、仕送りを補うために始めた飲食店のアルバイトが深夜に及ぶことがあって、勉学との両立に苦心させたれることはままありました。

そのアルバイトで知り合ったのが、同じ大学の他学部に在籍する新開弘治でした。この弘治との出会いが外山陽子最大の幸福にして、最大の試練への入口でした。二人は趣味だったゲームの話題を通して親密になっていき、知り合ってから1ヶ月の折に弘治から告白することで交際をスタートさせました。陽子だけではなく弘治にとっても人生で初めての男女交際だったため、当初は友人などが見ても笑われるほどぎこちない間柄でしたが、二ヶ月三ヶ月と経つほどに心の距離は狭まっていき、自他共に認める仲の良いカップルとなりました。何度か喧嘩なども経験しましたが二人はそのまま交際を順調に継続していき、恋人という立場からどこか円熟したパートナーといった雰囲気を醸し出すようになっていきます。大学卒業後、陽子は都市のアパレル会社に就職し、弘治は地方公務員として採用されて市役所に勤務するようになりました。

二人が結婚を強く意識するようになって少しした頃、突然二人に最大最難の関門に見舞われることになりました。弘治が肝臓がんであることが発覚し、止む無く市役所を休職して長期の抗がん剤治療を強いられるようになってしまったのです。陽子はほぼ毎日弘治を見舞いながら看病を続けて何とか回復の兆しが見え始めた頃、弘治から驚くべきことを告げられます。いわく、弘治のがんはステージ3なので5年後生存率が50%を割り込んでいるから、陽子の将来のためにも別れて欲しいということでした。突然のことに陽子は茫然自失で即答できませんでしたが、気持ちの整理をつけてよく斟酌を重ね、後日弘治にこう告げたのです。「私のためと言うのであれば、私はあなたのために一緒にいることを選びます。5年しか生きられないとは決して思っていませんが、私の5年をあなたにあげることができるのなら本望です」と。弘治は涙を流して陽子に感謝し、二人は弘治の退院直後に結婚することを決めたのです。

こうして外山陽子は新開陽子となりました。結婚後1年半で男の子が産まれ、さらにその2年後には女の子を授かり、子宝にも恵まれました。職場に復帰した弘治は、体調と相談しつつ休職のブランクを埋めるように仕事に励む反面子育てにも精励し、新開家は幸せな日々を過ごしました。それでも5年生存率50%以下という爆弾は弘治と陽子の間に深く横たわっていたのですが、タイムリミットが近づく一方で弘治の体調が崩れるといった様子はありませんでした。その後の診断で弘治の内臓に良性のポリープが見つかることはありましたが、心配していたがんの再発は全く認められず、新開家はようやく本当の幸せを手に入れることができたのです。その後、これを超えるような危機が二人の間に訪れることはなく、末永く幸せで静謐な時間を送る日々が続きました。

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